「和食」は
日本人の食への熱意の賜物
「和食」は従来の枠を超えて
グローバル化しています
前回は和食の原点ともいえる米、白いごはんについて野﨑さんの見解をうかがいました。今回は、現代の和食という形になるまでの変遷について、野﨑さんから興味深いお話をうかがっていきます。
「2013年に和食がユネスコの無形文化遺産に登録されました。かなり大きなニュースになりましたよね。日本の伝統的な食文化というものが評価されたのだと思いますが、では具体的に『和食』としてどんな料理が挙げられているかご存じですか。お雑煮などの伝統的な料理や各都道府県の郷土料理はもちろんですが、餃子、カレーライス、ラーメンなども『和食』とされているんです」
餃子も和食⁉ 餃子といえば、私たちはどうしても中国発祥ではと考えてしまいますが…。
「そうですよね。でも、中国で餃子といえば水餃子がほとんどですから、焼き餃子は日本発の和食として紹介されたのでしょうね」
私たちが本来思っているよりも、はるかに広くとらえられた「和食」。それは日本の風土、日本人の気質だからこそ、この形に行き着いたのだと野﨑さんは考えます。
「日本には明確な四季があって、地理的にも南北に長く、地域も多様性に富んでいますよね。だから、幸運なことにいろいろな農作物や海の幸に恵まれています。食材が多彩なだけに、その持ち味を生かして食べるという工夫を先人たちは惜しみませんでした。そして、いろいろなものを食べるから、栄養のバランスもよくなった。さらに、季節感を大切にしているから、季節を彩る食器を使ったり、盛りつけの美しさにも気を配っている。そんなふうに、古くから日本人は食に対する熱意がとても強かったのだと思います」
今の日本では、世界中のあらゆる国の料理でも再現して食べることができますし、しかもそれを自国の料理として発展させることができる。それも、食に対する熱意が強い日本人ならではだと野﨑さんは考えます。そして、ユネスコの無形文化遺産に「和食」が登録された際、「自然を尊重する」という日本人の慣習が評価されました。厳しい自然環境に負けないどころか、その自然と一体となって、日本人は食を維持、発展させてきたのですね。
江戸時代の「明暦の大火」が
日本の食文化に変化をもたらした⁉
「和食というと、白いごはんを基本にした一汁三菜をイメージする方が多いかもしれません。実際に、鎌倉時代の武士の家では、ごはんに味噌汁を合わせて食べていたようですし、室町時代にはお膳ができて、献立の形式が確立していたと言われています。安土桃山時代には、千利休といった茶人が現れて茶の湯が始まり、形式美がかなり発達して食事にも影響を与えていたと考えられます。ただし、上流階級の食事に限定されますけどね」
庶民が献立のような形式の食事をするようになったのは江戸時代と考えられていますが、多くの文献に目を通している野﨑さんは、1800年代に入ってからではないかとおっしゃいます。
「江戸時代後期でも、庶民の家にはかまどは1つしかなかったのではないかと思います。だから、米を炊くのは1日に1回。炊くタイミングは、実は東西で違いがありました。関東では朝炊いて、昼は冷やごはん、夜はお茶漬けに。関西では昼に炊いて、夜は冷やごはん、朝は水を加えておかゆにしていたようです。これは余談ですが、奈良のお寺で、前の晩に残ったお茶を温めたところに冷やごはんを加えて煮ていたそうで、それが茶がゆの始まりと言われているそうですよ」
東西のどちらも、米を炊かないタイミング(関東は昼と夜、関西は朝と夜)に、具だくさんの煮物などをたっぷり作り、それを何回かに分けて食べていたのではないかと野﨑さん。また、そのたっぷり作った料理を隣近所で交換しあったり、屋台などでおかずを買ったりなどして、かまどが1つしかなくても献立のような食事をしていたと考えられるそう。
「少し時代はもどりますが、1657年に起きた明暦の大火によって、日本の食文化が大きく変わったのではと僕は思っています。この大火は江戸市中をなめまわすように焼き払ったため、多くのものが消失しました。やがて、江戸の復興のために全国から多くの職人が集まったのですが、当初はそれらの職人たちが食事をする場所がなかった。そこでこの頃、日本に初めて『料理屋』というものができたんですね」
早い段階で、茶がゆを出す「奈良茶飯屋」ができたことがわかっており、やがてはそば、すし、鰻のかば焼きを出す店を始め、多くの料理店や屋台が江戸じゅうに増えていきました。さらに、江戸時代後期には、本格的な料理茶屋も出店するようになり、外食産業がますます発展していったそう。ちなみに、フランスにレストランが初めてできたのは1750年ごろ、イギリスは1817年ごろですから、そういった点でも日本人の食に対する強い熱意を感じますね、と野﨑さんは語ります。
「江戸時代の本格的な料理屋といえば『八百善』が有名です。料理屋の枠を超えて一流の文化人が集まるサロンのような存在になっていて、狂歌師の太田南畝(おおた・なんぽ)や絵師の酒井抱一(さかい・ほういつ)も出入りしていたようです。尾形光琳の弟の尾形乾山窯の器を使っていたと聞いたこともあります。料理屋が文化の発信地の役割も果たしていたんですね。江戸の食文化は華やかで、それは魅力あふれるものだったと思いますよ」
文明開化によって
「和食」という言葉が生まれました
明治時代に西洋の文明が入ってきて、日本の制度や生活習慣が変わったことを文明開化といいますが、それによって「和食」という言葉が生まれた、と野﨑さんは語ります。
「文明開化でいろんな西洋文化が入ってきて、日本の食事にはなかったものが『洋食』と言われるようになったんです。洋食という言葉のほうが先にできて、対してそれまでの日本の食事を『和食』と言うようになったんですね」
そして、新しく入ってきたものを和食になじませていくという能力にも日本人はたけていたと野﨑さんは感じています。そのよい例が「牛鍋」です。江戸時代、牛肉は一般的には食べられておらず、殿様などは薬と称して食べていたようですが、明治時代になって庶民も食べるようになり、牛鍋が関東で流行します。
「関東の牛鍋は、具は角切りの牛肉と五分(約1.5㎝)に切ったねぎだけで、味噌と砂糖で味つけをしていました。それが関西に伝わり、肉は薄切りになって野菜でカサを増して、味つけはしょうゆになりました。それがすき焼きと呼ばれるようになり、関東にもどってきたようです。今回紹介している『味噌すき焼き』は、その当時の牛鍋とすき焼きをミックスしたような料理。文明開化の頃を思い浮かべて召し上がってみてください」
現代の和食のルーツは
昭和30年代ごろ
文明開化以降も、日本は西洋だけでなく、いろいろな国の食を取り入れてきましたが、現代の和食(日本の食生活)のルーツは、冷蔵庫が普及した昭和30年代ごろではと野﨑さんは考察しています。
「昭和30年代、今から60年くらい前ですが、僕の家にも冷蔵庫がやってきたのを覚えています。小学生の僕が自分で料理を作るようになったのも、冷蔵庫のおかげです。いろいろな材料が冷蔵庫に保存されていたので、それを自由に使っていました」
食材を冷蔵保存できるようになったことで、食生活が大きく変わった、と野﨑さん。それ以降も便利な調理器具などは出現しますが、昭和30年代ごろの日本の家庭の食事が今の和食のベースになっているのでは、と野﨑さん。餃子、カレーライス、ラーメンなどが和食としてとらえられる現代ですが、これから先の未来、和食はどのように変化していくのでしょうか。野﨑さんも興味深く見守り続けられることでしょう。
味噌すき焼き
材料(4人分)
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牛肉(すき焼き用)……300g
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ねぎ……2本
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セロリ……1本
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ししとうがらし……10本
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麦味噌(おすすめは「長崎麦みそ」)…100g
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砂糖……15g
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酒……大さじ2
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牛脂……適量
作り方
①麦味噌、砂糖、酒、水1/2カップは合わせておく。
②ねぎは1㎝幅の斜め切りにし、セロリは斜め薄切りにする。牛肉は2~3つに切り分ける。
③鉄鍋に牛脂を入れて弱火で熱し、ねぎを並べて焼く。半分くらい火が通ったら端に寄せ、セロリを加えてさっと炒め、端に寄せる。牛肉を広げ入れてさっと焼き、半分くらい火を通す。
④牛肉に①の半量を加え、からめながら食べる。あいているところにししとうがらしを加えてさっといため、残りの①を加えて全体にからめる。
「味噌すき焼き」に
おすすめの蔵乃屋の味噌
長崎麦みそ
「味噌すき焼き」のおいしさの決め手は、味噌です。まろやかさとうま味にこだわり抜いた味噌本来の風味と香りが引き立つ逸品のこの麦みそで、ぜひこの料理を作ってみてください。